「巨乳の誕生」公式ブログ

安田理央・著「巨乳の誕生 大きなおっぱいはどう呼ばれてきたのか?」(太田出版)の公式ブログです。

『巨乳の誕生』序章 原宿に日本初の巨乳専門ショップがあった(全文公開)

 

●原宿に巨乳ファンの憧れの地があった

 

 80年代、まだ「巨乳」という言葉が一般的ではなかった時代に「胸の大きな女性を愛好する男性たち」が憧れていた店があった。しかも原宿駅のすぐ近くという場所だ。
 それが「ヴイ・レックス原宿」である。オープンは1985年の12月。原宿駅竹下口から線路沿いに代々木方面に歩いてすぐの雑居ビルの2階にその店はあった。当時の原宿は若者文化のメッカであり、若者向けの商売をやっている人間なら誰もが出店したがるであろう絶好のロケーションだ。
 そんな場所に、日本初の巨乳AV専門ショップ、ヴイ・レックス原宿はあったのだ。
 当時、巨乳好きならば必ず読んでいたのが大亜出版(現・ダイアプレス)が発行している『バチェラー』という雑誌だった。80年代末に巨乳ブームが訪れる前から、海外モデルを中心に巨乳グラビアを前面に押し出した誌面で、巨乳ファンの心を掴んでいた。
 その『バチェラー』に毎号広告を出していたのが「東宝ファミリークラブ」(TFCファミリークラブ)という通販会社であった。和物洋物を問わず巨乳モデル出演のAVをずらりと並べたカタログ的なその広告の下欄にはいつも「Dカップビデオならヴイ・レックス原宿」と店舗告知が掲載されていたのである。ちなみに、当時は巨乳のことを「Dカップ」と表現することが多かった。
 小林ひとみ黒木香といったスターがデビューし、AVがようやくアダルトメディアの王座へ登りつめようとしていた時期である。レンタルビデオ店が一万店を超えるほどに盛り上がっていたとはいえ、まだまだメディアとしては未成熟であり、ジャンルの細分化も進んでいなかった。マニアックなジャンルが「フェチ」という言葉によって一般化するのは90年代に入ってからの話だ。
 そんな時代に巨乳専門のAVショップが既に誕生していたのである。日本最初のフェチショップと言ってもよいだろう。
 もちろん巨乳ブームも到来する前だ。巨乳をテーマにしたAVも少ない。そんな時期に巨乳AVばかりを集めたショップが原宿にあるのだと『バチェラー』の広告を見て知った全国の巨乳ファンは、一度は足を運んでみたいと熱望したのである。そこは正に巨乳ファンの憧れの地であった。
 AV情報誌『オレンジ通信』(東京三世社)の1990年2月号にヴイ・レックス原宿の1989年12月期のAV売上ベスト10が掲載されている。

1位「Fカップ・エンジェル/スーザン」(フェニックス)
2位「SEXと巨乳とビデオテープ/加山なつこ」(EVE)
3位「巨乳みだら舞/松本鈴音」(志摩ビデオ)
4位「巨乳みだら吊り/深田みき」(志摩ビデオ)
5位「エデンの淫獣/樹まり子」(ウルトラD)
6位「変態バスト100/真咲乱」(VCA)
7位「あぶないデカパイ/麻宮千聖」(アリスJAPAN)
8位「胸騒ぎの瞬間/羽田りえ」(新東宝
9位「乳姦/真咲乱」(VCA)
10位「極上の妻たち/庄司みゆき」(VIP)

 ヴイ・レックス原宿では、巨乳モノ以外のAVも扱っていたが、ランキング入りしているのは、見事なほどに全て巨乳モノ、あるいは巨乳女優の出演作である。
 ヴイ・レックス原宿は、確かに巨乳ファンの集う店だったのだ。

 


●巨乳、特撮、プロレスが同居するショップ

 

 1980年に創刊された『宇宙船』(朝日ソノラマ、後にホビージャパン)という雑誌がある。国内外の特撮に関する情報を扱った専門誌だ。
 この雑誌にも「東宝ファミリークラブ」(TFCファミリークラブ)は毎号広告を掲載していた。こちらでは、東宝の特撮映画を中心にテレビの特撮番組やアニメのビデオ、レーザーディスクのカタログを掲載。『ジャンボーグA』や『戦え!マイティジャック』などの特撮テレビ番組をビデオ化したソフトは、TFCオリジナルビデオとして紹介されている。『ダイゴロウ対ゴリアス』の広告には、「特撮ファン・マニアの強い味方、東宝ファミリークラブからついに発売! 一般販売店では買えない。当社通販のみの独占販売」というキャッチコピーが誇らしげに書かれている。
 そしてそこには「マニアもおすすめ 特撮ビデオ・LDの専門店 ヴイ・レックス原宿」という店舗告知が掲載されているのだ。
 一方では、Dカップビデオ専門店であり、一方では特撮ビデオの専門店。しかも、当時この店に行った人の話を聞くと、『バチェラー』の広告を見た人は「巨乳AVがたくさん並んでいた」と言い、『宇宙船』の広告を見た人は「特撮映画とテレビヒーローのビデオがあった」と言い、お互いそれ以外のビデオの印象はなかったようだ。もしかすると、これは別店舗、あるいは時期によって取り扱う専門が変わったのではないだろうか、とまで考えた。
 しかし、実際にはやはり同一の店舗だった。店舗の半分ほどが特撮作品、そして残りが巨乳を中心としたアダルト作品やプロレス作品、その他の一般作品を陳列していたようだ。
 そう、東宝ファミリークラブは『バチェラー』や『宇宙船』だけではなく、『週刊プロレス』にも広告を出し、そこでもヴイ・レックス原宿は告知されていたのだ。
 巨乳、特撮、プロレスという全く違う3つのジャンルを取り扱うショップがヴイ・レックス原宿だったのだ。おそらくそれぞれのファンは、自分の目的のジャンルの棚しか目に入らなかったのだろう。
 マニアとはそういうものなのだ。

 

淀川長治の弟子が始めた巨乳AVメーカー

 

 しかしヴイ・レックス原宿はどうして、この3つの異なるジャンルを同じショップで扱おうと考えたのか。単に店長がこの3つのジャンルが好きだったのだろうか。
 その鍵は、ヴイ・レックス原宿を経営する東宝ファミリークラブにあった。
 かつて東宝ファミリークラブで営業部長の職についていたという福井卓司氏に話を聞くことが出来た。
 実は、東宝ファミリークラブのことを調べていて福井氏にたどり着いた時に、筆者は驚いた。福井氏といえば、ビッグモーカルという老舗AVメーカーの社長として、そして90年代に先鋭的な作風で注目されたV&RプランニングというAVメーカーの黎明期を支えた営業担当として知られている人物だったからだ。
 V&Rプランニング出身のAV監督カンパニー松尾の自伝的漫画『職業AV監督』(原作:カンパニー松尾 作画:井浦秀夫)にも福井氏は登場していたため、強い印象に残っていた。
「実は僕は社長の佃善則の甥なんですよ。僕の母親が佃さんの姉だったんです」
 大学卒業後、まだ国内でチェーン店展開を始めたばかりのマクドナルドで店長をしていた福井氏を、佃氏は「これからはビデオの時代だ。ビデオ業界はどんどん大きくなるから」と自分の会社に誘ったと言う。
 佃善則はユニークな人物であった。地元の松山で淀川長治氏の講演を聞いたことがきっかけで映画の世界に足を踏み入れ、俳優として東映に入社。俳優としては芽が出ることはなく、その後、映画館の支配人となる。淀川長治とも親交を深め、弟子のような存在であったという。佃氏の著書『淀川長治が遺してくれたこと 映画が人生の学校だった』(海竜社 1999年)を読むと、佃氏が淀川氏のプロデューサー、マネージャーのような存在であり、仕事上のパートナーでもあったことがわかる。
 映画館支配人の仕事を辞めて独立した佃氏は、自分の会社を立ち上げる。そのひとつがヴイ・シー・エー(VCA)だった。
東宝ファミリークラブというのは屋号で、会社名はヴイ・シー・エーでしたね。最初は健康器具の通販とかやってたみたいですけど、そのうちにビデオの通販がメインになりました。佃さんは映画業界の知り合いが多かったから、資本関係はないのに、『東宝ファミリークラブ』を名乗ることを許してもらったみたいですよ。でも、そのうちアダルトを売るのに『東宝』はやめてくれってクレームがついて『TFCファミリークラブ』を使うようになったんです。でも佃さんは『何言ってるんだ。東宝だって最初はAVやってたくせに』って怒ってましたね」
 確かにAV黎明期の80年代前半は、大手の映画会社やレコードメーカーもピンク映画や洋ピン(輸入成人映画)のビデオソフト化を手がけていたのだ。
 ヴイ・シー・エーは東宝とのパイプを活かして、それまで埋もれていた隠れた特撮作品などを自社ブランドでソフト化もした。宇津井健主演の日本初の特撮スーパーヒーロー映画『スーパージャイアンツ』や、特撮テレビ番組『幻の怪獣アゴン』『宇宙Gメン』などを発売。
 同時に米ポルノ映画の巨匠ラス・メイヤー監督の作品を輸入して日本向けに編集し、独占販売したところ、大ヒットした。1982年のことである。
 これがヴイ・シー・エーの巨乳路線のきっかけとなったのである。

 ラス・メイヤーは50年代から70年代にかけてアメリカで活躍したポルノ監督である。ポルノと言っても、本番行為のないソフトコアと呼ばれる作品が中心で、巨乳の女優が激しいアクションを見せるという独特の作風で人気を博した。
 当時は日本でも公開されたラス・メイヤー作品だが、この時点では既に全盛期はとうに過ぎ、過去の監督と見られていた。しかし、巨乳マニアの間ではラス・メイヤーの存在は神格化されていたのだ。
 ヴイ・シー・エー(この時はTFCビデオコレクターズ名義)は『女豹ビクセン』(原題:VIXEN 1968年)『真夜中の野獣』(原題:FINDERS KEEPERS, LOVERS WEEPERS 1968年)『淫獣アニマル』(原題:SUPER VIXEN 1975年)の三作品を販売。日本向け編集といっても、陰毛や性器の表現など日本の法律に触れる部分をカットしただけで字幕もつけていない。
 当時の広告(『ビデオプレス』1983年5月号)には、「混雑が予想されますので、ラス・メイヤー作品に限り、店頭での販売はいたしません。全て予約制で通信販売いたします。ごめんどうでも、必ず現金書留でお申込みください。商品到着まで15日前後かかります。なお、品切れの際は1ヶ月前後お待ちいただくこともありますのでご了承ください」という「お願い」の一文が添えられている。高飛車にすら感じられる文章だ。
 そして実際に、このラス・メイヤー作品は1本が3万5千円と高価な商品にもかかわらず、限定500本が完売となる売れ行きを見せ、「巨乳は売れる」という確信を佃氏に与えた。また、この頃、取り扱っていた『恵子 バスト90桃色乳首』(ヘラルド・エンタープライズ ポニー)や『D-CUP 変態バスト99』(東京ビデオ)などの国産巨乳AVも人気だったことから、オリジナルの巨乳AVを制作することを決定する。

 

●巨乳フェチAV第一号『淫乳』

 

 その第一作となったのが1983年8月25日発売の『淫乳 バストアップ95』だ。主演は、現在も熟女女優として活躍しているしのざきさとみ。パッケージには、企画・発売元は「東宝ファミリークラブ」のクレジットになっている。
 ボーイッシュなショートカットでありながら豊かな乳房のしのざきさとみは、現在の基準から見れば、それほど大きいという印象はないが、実際はDカップよりもサイズはあるだろう。
 本作はAVでありながらもセックスシーンは無い。カメラはひたすらしのざきの乳房を追う。身体の動きと共に揺れる乳房、自らの指で揉みしだき変形する乳房。光と影を効果的に使った幻想的な映像も美しい。現在ではイメージビデオに分類される作品だ。
「そうなんです、『淫乳』には佃さんの指示でカラミが無いんですよ。たぶんラス・メイヤーの影響じゃないですかね。ラス・メイヤー作品もセックスが無かったりしますからね。それでも大きなオッパイが出てくれば、マニアは嬉しいんです。『カラミは無くてもいい。むしろ無い方がいい。カラミじゃなくて胸が見たいんだから。マニアはそうなんだよ』って言ってました。ユーザーの声をずいぶん聞いていたようです。僕なんかは、そんなの売れるかな、と思ったんですがヒットしましたね。通販だけでも千本くらい売れましたよ。毎日毎日、現金書留が山のように届くんですよ。発送が終わらなくて夜中までやってましたね」(福井氏)
 本作の監督は小路谷秀樹。AVの黎明期に、最も先鋭的な映像を撮り、後のAVに大きな影響を与えたと言われる鬼才である。
 そして、その現場でADを務めていたのが高槻彰だった。後に過激なドキュメントAVで名を馳せ、00年代に入ってからは爆乳専門メーカー「シネマユニット・ガス」を率いて、爆乳AVを撮り続けることになる監督だ。
 高槻氏に『淫乳』について聞いた。
「大学生の時にピンク映画やAVの助監督のバイトをしていたんです。それで宇宙企画の現場で知り合ったのが小路谷だったんです。ドキュメント的だったりモダンアート的だったりの味付けがあって、小路谷の撮るものは本当に面白かった。それで大学を出てから、小路谷の制作会社4Dに入るんですが、『淫乳』はその前ですね。確かあれは、小路谷が宇宙企画の機材をこっそり借りて撮影したんですよ。それで僕も助監督でつきました。上野のラブホテルで撮りました。彼は別に巨乳好きじゃなかったと思うけど、映像はすごく綺麗に撮りましたね。フェチな映像を撮るというのは難しいんですよ。それまではおっぱいの大きな女をただ撮ればいいというAVしかなかったところに、この角度でこう撮れば綺麗だっていうのを確信的にやってた。どう撮れば巨乳が映えるのかを、ちゃんとわかって撮ってましたね」
 セックスを中心に据えず、特定のフェティシズムにテーマを絞るフェチAVは90年代に入って数多く作られるようになるのだが、AV黎明期にあたるこの時期にそんな発想をするメーカーはなかった。『淫乳 バストアップ95』は日本で初めて巨乳をフェチの観点で捉えたAVであり、日本初のフェチAVだったと言っていいだろう。

 

●初の巨乳専門メーカーの誕生

 

 そしてヒットした『淫乳』は当然、続編が作られることになった。続編から監督は、4Dに入社した高槻氏に交代した。
「僕が巨乳好きだからというわけで振られたわけではないと思う。当時は恥ずかしくて誰にも巨乳好きなんて言ってなかったから、小路谷も知らなかったはずですよ」
 AV監督ですらも、巨乳好きだと公言するのは、恥ずかしい。そんな時代だったのだ。だからこそマニアはコアな巨乳AVを欲したのである。
 高槻彰監督による『淫乳 Part2』は1985年5月に発売された。出演は中村京子・菊島里子・南もも子の三人。これもヒットし、以降『淫乳』シリーズ、そしてヴイ・シー・エーの巨乳AV作品は次々と作られることとなった。同年には、『淫乳part3』主演をオーディションする「秋のD-Cupギャルコンテスト』まで開催された。
 倉田ひろみや高杉レイといった一部の人気女優の出演作を除けば、ヴイ・シー・エーは巨乳作品ばかりをリリースし続けた。日本初の巨乳専門AVメーカーである。80年代には、専門メーカーはSMくらいしかなく、メーカーとしてジャンルに特化するのは、かなり進んだ考え方だったと言える。
 なにしろヴイ・シー・エー以外に巨乳専門のAVメーカーが立ち上がるのは、2004年のシネマユニット・ガスの登場まで待たねばならないのだ。
 AV情報誌『アップル通信』(三和出版)の1987年4月号に、連載「アダルトVDメーカー訪問インタビュー」の第9回、ヴイ・シー・エー編が掲載されている。

 淫乳シリーズなどDカップ巨乳物ならまかせなさいと胸を張るビデオメーカーがある。今回のビデオメーカー訪問インタビューは、世にDカップビデオメーカーとして公言してはばからぬVCAである。

 当時の企画制作室の安西氏がインタビューに答えている。

 なぜあまりDカップ物を本数作らないかというのはですね。Dカップで、なおかつ顔もいいというこちらが納得できる素材がなかなかいないという事なんです。95~100センチ以上のDカップの持つねちっこさを出す、Dカップマニアに受けるビデオ作りなら絶対他社に負けない自信はあります。(中略)うちの作るDカップビデオというのは、今この業界では異端児的な存在になると思うんですよ。他社のDカップ物とくらべた場合、ハードさは、少ないです。しかし、うちは、マニアの方にいかに受けるビデオを作るかだけを考えてこれからもいくつもりです。要するに、うちのDカップビデオは、Dカップのプロモーションビデオですよ。

 マニア向けメーカーなのだということを強く意識した発言である。この記事が掲載された1987年は、既に他社からも多くの巨乳女優出演作が発売されていた。それらの作品ではハードな本番が売りになっていた(当時、巨乳女優は一段下に見られていたため、内容も過激に走りがちだった)。しかし、ヴイ・シー・エーは、セックスよりもおっぱいを見たいマニアックなユーザーへ向けた作りをしているのだと、宣言しているわけだ。

 

●マニアのための店「ヴイ・レックス原宿」

 

 ヴイ・レックス原宿がオープンしたのは、この『アップル通信』の記事が掲載された2年前の1985年である。ヴイ・シー・エーは、それ以前にも東池袋上板橋に「サンビデオ」というセルとレンタルのショップを経営していた。
 サンビデオは当時、ビデオの大手問屋だった童夢が経営していたレンタルショップのチェーンだった。しかし童夢が経営難からショップを手放すことになり、そのうちの2店をヴイ・シー・エーが買い取り、そのままの店名で経営していたのだ。
 ヴイ・レックス原宿はヴイ・シー・エーにとっては3軒目のショップであり、初のセル専門店であり、通販広告と連動させるという実験を試みた店舗だった。
 原宿になった理由は当時、佃氏が近くに住んでいて、たまたま物件があったからだという。
 さて、なぜヴイ・レックス原宿が、巨乳、特撮、プロレスという全く違う3つのジャンルを取り扱うショップになったのか。それが社長の佃氏の趣味だったのだろうか?
「佃さんは、その辺は全く興味のない人でしたよ。もっと正統派の映画青年という感じでしたね。ヴイ・レックスで扱っていた商品は、完全にビジネスだと割り切っていたんだと思います」(福井氏)
 確かに著書『淀川長治が遺してくれたこと』を読んでも、佃氏にサブカルチャー的な志向はほとんど感じられない。
 では、なぜ巨乳、特撮、プロレスだったのか。その答えは意外なところにあった。
 福井氏は語る。
「ヴイ・シー・エーは、もともと広告代理店だったんです。通販業務を始めてからも広告代理店業務は並行して行っていました。なので、出版社とは付き合いが深かったんですね。それで色んな雑誌に広告枠を持ってたんですけど、専門誌というものがあって、そこには特定のファンがいるのだということがわかってくる。『バチェラー』という巨乳の専門誌があるということは、それだけの巨乳マニアがいる。そこに巨乳AVの広告を載せれば売れるし、編集部からユーザーの声も聴くことができる。ターゲットを絞った商売がしやすいわけなんです。『宇宙船』があったから特撮、『週刊プロレス』があったからプロレス。あと『丸』って戦記の専門誌もありましたから、戦記物のビデオも扱いましたね。まず専門誌ありきなんです。そこに広告を毎号載せれば、お店にも興味を持ってくれるだろうと。だから、もし『バチェラー』が無かったら、ヴイ・シー・エーは巨乳AVを作っていなかったかもしれませんね」
 マニアにとって、専門誌が唯一の情報源であった時代ならではのエピソードだ。
 90年代にザーメン物AVで大成功した松本和彦監督も同じようなことを語っている。
「(おれは)実はザーメンマニアでも何でもなかったんだよ。(中略)でも、当時、みよしさんがやってたザーメンマニア向けのエロ雑誌が実売で2万部だと聞いて、あっ、これは商売になるな、と考えたんだよね。その2万人のマニアを全部囲い込めれば凄いことになる」(『月刊ソフト・オン・デマンドDVD』 2016年11月号 ソフト・オン・デマンド )
 そして、ヴイ・シー・エーのその戦略は見事に成功したと言えよう。

 

●ヴイ・シー・エーの失速と終焉

 

 ヴイ・シー・エーは、その後も巨乳専門AVメーカーとして活動していくが、90年代に入ると更にマニアックな方向へと進んでいく。巨乳を超えた『ザ・爆乳』というシリーズをヒットさせるなど、あくまでもマニアに寄り添う姿勢を続けた。
 ヴイ・シー・エーというメーカーは、一般のAVファンの間では、あまり聞かれないものだったが、『バチェラー』を読むような巨乳マニアの間では、老舗メーカーとしてブランドを確立していた。
 しかし90年代後半には問屋の倒産により多額の負債を負ってしまうなど、その経営は苦しいものになっていった。
 1987年に独立して自身のメーカー、ビッグモーカルを立ち上げ、成功していた福井氏が支援するも、失速は止まらず規模の縮小を続けた。
「結局、ヴイ・シー・エーは時代に乗れなかったということでしょう。初期は通販と店頭販売だけで上手くいっていましたが、AVがレンタル全盛になった時にはそれに出遅れた。その後も、中途半端に通販や問屋業に力を入れていたのもよくなかったと思いますよ。AVはやはりメーカーが一番儲かるんです。他社製品を扱っていても利幅が薄い。それならメーカーとしてもっと力を入れればよかった。ただ、もっとセルで頑張っていれば、その後にセル時代が到来した時に、セル流通を制することが出来たかもしれませんけどね」(福井氏)
 そして2002年には制作を中止し、メーカーとしてのヴイ・シー・エーは活動を停止してしまう。その後も問屋として会社は存続したが、2004年に佃氏が亡くなり、2006年にはヴイ・シー・エーは終焉を迎えた。

 高槻彰氏が、それまで制作会社であった自身の会社「シネマユニット・ガス」をAVメーカーとして再出発させたのは2004年のことだった。
 過激なドキュメントなどの先鋭的な作風で知られた高槻監督だったが、「ガス」は爆乳専門を打ち出したメーカーだった。
「ヴイ・シー・エーで撮った作品の著作権があったんですよ。当時、ヴイ・シー・エーから『うちお金ないから、パーセンテージでやりませんか?』って言われてたんです」
 つまり制作費は高槻側で持ち、販売をヴイ・シー・エーが行い利益は折半するという形だ。そのため、作品の著作権は高槻氏の方にあったのだ。
「20タイトルくらいあったので、それをベスト版にして出したら売れたんです。爆乳はニッチで固いマニア層がいますからね。それで、爆乳路線で行こうと思ったんです」
 ヴイ・シー・エーが無くなった後、巨乳専門のAVメーカーは他に存在しなかった。行き場をなくしたマニアの受け皿となったのがシネマユニット・ガスだったのだ。
「やっぱりヴイ・シー・エーは巨乳マニアの中では確固たるイメージがありましたからね。ガスとしては『ヴイ・シー・エーを超えるメーカーになるぞ』という目標がありました。でも、始めた時は大手のメーカーのプロデューサーに『なんで巨乳メーカーなんてやるの?』と言われましたね。そこまでユーザー層を絞りこんで売れるとは思われていなかったんですよ」
 その後、2008年には「OPPAI」「胸キュン喫茶」、2010年には「ボンボンチェリー」「まぐろ物産」(こちらは爆乳と言うより豊満な体型に重心が置かれているが)などの爆乳専門メーカーが次々と誕生する。
 ヴイ・シー・エーが80年代に蒔いた種子は、30年を経た今も生き続けているのだ。

 かつてヴイ・レックス原宿があった雑居ビルは今も健在だ。調べてみると、物件には現在カフェが入っているようだった。
 その店のサイトには「50~60年代をイメージした店づくりをしています。壁に貼られた写真は時代を彩った銀幕のスター、流れる音楽はオールディーズや昭和のフォーク。 一歩店に入るとまるでタイムスリップしたかのようです。熱く輝いていたあの時代に包まれながら、美味しいお酒とお料理をお楽しみ下さい」と書かれている。
 原宿駅竹下口を降りて、その店を訪ねてみる。その雑居ビルは確かに竹下口から徒歩一分という絶好の場所にあり、白い壁の小洒落た建物だった。他にはイタリアンレストランやインドレストラン、本格的なハンバーガーを食べさせる店などが入っている。こんなビルに巨乳専門店があったのかと思うと不思議な気持ちになる。
 螺旋階段を上がって2階奥、かつてヴイ・レックス原宿が入っていた場所には、そのカフェの看板は掲げられているが、覗いてみると現在は倉庫になっていて、カフェとしての営業は行っていないようだった。サイトに掲載されている電話番号にかけてみると「おかけになった電話番号は現在使われておりません」という無機質なアナウンスが流れた。